アルゲリッチ
母親がピアノの先生だから
小さい頃からクラシック音楽に親しんできた。
なんならクラシックこそが音楽で、それ以外はただの音って認識だった。
中学校に上がると、みんな急にませ始めて
加藤ミリヤだとかを良いというようになった。
いや、あんたら数ヶ月前まで忍たま乱太郎の100%勇気うれしそうに歌ってたやん、変わり身の早さなんなん…と感じていた。
そしてそのころようやく、世間的にクラシックはダサいって思われてることを知った。
たしかにわたしも、運動会でながれるロッシーニのスイス軍の行進とかダサいと思うよ…てれれてれれてれれっれっれっ
そんな世間様もマルタ・アルゲリッチを知ればダサいなんて思わないはずだ。
この人は本当におしゃれな弾き方をする。
型にはまった弾き方じゃなくて、曲を自分の音楽にしてしまう。それがたまらなくかっこいいのである。
クラシックって再現の音楽と言われてて、当時の楽器のクオリティや楽譜に書いてあることを忠実に表現するのがルール。だから多分みんなつまらないって思うんだよな。誰が演奏しても代わり映えしないって感じやすい。
ピアノはキッズの鉄板のお稽古ごとだけど、そこで必ず言われるのが、楽譜通りに弾きなさいってことば。
それはクラシック音楽の本質が再現性にあるからなのだ。でもそれが子供のクラシックアレルギーにつながってる、お母さんの生徒を見てるとそんな印象。
そんなキッズにこそ、アルゲリッチの演奏を聴かせたい。再現音楽というルールを大きく逸脱してはいないけど、優等生になることがクラシックじゃないって感じてもらえると思う。
ツッコミが追いつかない
◎
中学時代の同級生とインスタフォローしあってるのだが、その子の最近の投稿を見てびっくり
どうやら結婚して妊娠し、さらには退職しているという。育休じゃないんだ、やっぱり会社が認めてくれなかったのかな、世知辛い世の中だなぁ…と思ったが、驚いたのはそこじゃない。
わたしはいまだに学生で就職さえしていないのだ。友人とわたしのコントラストが激しすぎることに驚愕した。
先を行き過ぎじゃないかい?明らかにヤンキーで18で子供産みましたっていうならまだわかるけど、
一般的なレールに乗ってても結婚出産退社に至る、そんな年齢にわたしはなっていたのね…
さらに驚いたのはこれを予備校時代の友達に話したら、その友達の地元仲間は10歳離れたバツイチ中国人とデキ婚したという。
パワーワードの連続でついていけねー…
敏感肌
最近肌がまけてる。多分日焼け止めまけなんだけど。
ニキビとは違う、肌に赤く膨れ上がった湿疹がたくさんできてる。
搔きむしらないとやってらんねーぇぇってほどではないのだけど、
ほんのりむず痒くてなんとなーくヒリヒリする。
湿疹のほかにも、最近やけにそばかす目立つなーと思って
肌を凝視したら、頬の毛穴が赤くなってたとかね。
完全に肌全体が炎症を起こしているんだな。
紫外線防止効果の強いものが原因かもしれないので、
日焼け止めのほかに使っている、ヴィセのUVラスティングベース(SPF50、PAすりー+←プラスを連打するのがめんどくさくて)の成分を調べたいのだが、
ネットでいくら調べても出てこない。
公式サイトいっても成分表示のページが見当たらない。
え、こんなことってある?
カラダに関わるものを作るメーカーがそれでいいんか?と少し腹が立ってしまった。
当たり前のことだけど、商品パッケージには記載があるから、情報開示してないってわけじゃないけどさ、
消費者がいつでも情報に当たれるような環境を整備すべきでは?
とりあえず敏感肌が苦手とする紫外線吸収剤と酸化亜鉛がはいったコスメは今後控えようと思う。
結局は自分への愛
ブログを書いてみようと思ったものの
今日は何もしないので書くことがない。
まともな食事もしてなければ
まともな活動もしてない。
Wi-Fiが遅すぎて、オークションサイトをパトロールする気さえ起きなかった。
人間としてこれでいいんか?って感じ。巨大な無を感じている。
あまりにも人間らしさがないので
私の好きな、メイクやファッション、化けること全般について最近思ったことを書いてみようと思う。
最近のわたしは、遠距離中の彼氏の家に夏服をごっそり持っていってしまったことで、家にまともな服がないという緊急事態に陥っている。
だからどうにかして、数少ない手持ちの服で、コーディネートにバリエーションを広げようと頑張ってるのだか、これこそがファッションの醍醐味よね、と感じたのである。
お金さえあれば流行は抑えられるし、おしゃれに繕うことはできる。でもそれって簡単なことなんだと思う。
お金っていろんな労力を節約できるけど、いろんな創造力を削ぐパワーもある。
そんなふうにしてできたスタイルは確かにおしゃれかもしれないけど、愛情ないし飽きちゃう。そして、それを身につけた自分自身にも飽きちゃう。
流行の移ろいのはやさは、労力を注がないぶんものへの愛が少ないこと、その結果として自分自身も愛せないことの1つの表れだと思う。
好戦的なことを書いちゃったけど、消費的な自分に負けたくないと思って。
空いた穴には何かが埋まる
いくら相手を大切にする気持ちがあろうと、
慰める技術がなければ人を慰めることはできない
気持ちだけで十分なんて清純な考えを、わたしは持ち合わせていない
責めたくないのに、昨夜は思いっきり責めてしまった
責めなければ別れられないとも思った
相手が悪いのではなく、ただ、わたしのニーズには合わないだけなのだ
就活からコスメに思考が派生する人
就活について考えていても、ついついコスメに思考が派生してしまう。
就活に対する自分の考えをまとめるためにも、頭で考えるだけでなく、文字に起こそうと思った。(コスメの話は一切ありません。)
これまで就活をしてみて思ったのは、
就活っていうより、これまでの人生を振り返って総括して導き出された結論は
わたしは自分を語ることが非常に苦手だということ。
大学院まで行ったのに、なぜうちの企業に?
どんなつながりがあって?
これは就活で面接官の方に度々問われたことである。
でもこの手の質問は、はじめてではない。
なぜあなたは、・・・をしたの?
行動の動機は?
動機−行動の因果関係。人生の必然性。自分の人生を物語ることを要求されたことって、これまでにも何度もあった。
その因果関係を物語るとき、べつに本当のことなんて言わなくていい。
だって自分でさえ、なぜ自分がそのような行動をとったのか、その動機はわからないから。人間の行動はたくさんの因子に導かれているから。
だから、どう語れば自分も相手も私の人生に対して納得することができるか、が大切なんだろうと思う。
それなのに、私は物事を断定的に語ることができない。
その場しのぎの納得感に何の意味があるんだという考えがよぎって、まともに話せない。うさんくさいと思ってしまうのだ。
語った自分のうさんくささ、語られた言葉の不条理さに、耐えられなくなってしまう。
そもそもこれまでの人生と結び付けないと、仕事や会社に対する真心が測れないなんておかしいじゃないか。そんな子供じみた愚痴を心の中で言っている。
あるとき断定的に語れるようになることは、強さだと人に言われた。
その人は私に何度も何度も強くなれ、変われ、と言った。
私が悩んでいるのは、都合のいい鬱のようなものだとも言った。
「人生の物語」が真実かどうかに固執している私は
自分のことしか見えてない弱い人間だと指摘されたわけだ。
たしかに、その指摘は真っ当だ。
私は相手が納得できるかよりも、自分が納得できるかを優先しているからだ。
納得できるものだったからこそ、
余計に私は私を認めることができなくなり、苦しくて毎日涙が出た。
まわりの人を見ていても思うけど
人はある悩みに直面したとき、変わらなきゃって思う
だけど、変わらなきゃって思うのになかなか変われないこのとき、
最初の悩みよりももっと重くて苦しい悩みを体験するんじゃないかって思う。
変わることだけが正解なのかと考えることがある
変われない今の自分にも大切にすべき何かがあるんじゃないのか?
私は不条理さに目を瞑ることのできない、社会不適合者だと思う。
だけど、不条理に耐えられなくなることは誰にでもあることだと思うのだ。
なぜなら、人の数だけ道理があるからだ。 だけど、世の中は単一の原理で動こうとする。 そうじゃないと、私たちは社会的な存在になれない。
多様性を認めすぎていたら、政治はできない。
不平等と差別がなければ資本主義経済は成立しない。
そんな世界に、誰かがうさんくささを感じたとき、私は寄り添える。
繊細すぎるからこそ、不条理に悩む心に寄り添える。
個人にとっての不条理は、必ずしも社会が悪いということではない。 だから、社会は敵ではない。 辛くなったらお休みして、また戻る場所だ。
私は休息に寄り添える。休息は1人でもできるかもしれないし、寄り添えるなんて傲慢な言い方なのだが。 ただ、非難したり無視したりはしない。スキルでもないかもしれないが、私の欠点は、ある人にとっては希望になれるんじゃないかと思った。
彼氏がこの前、私のことをまともな人間だと言ってくれた。
はじめはいまいちピンとこなかったけど
今日考えたようなことを言ってくれたのかなと思い至って、私のことをちゃんと知ってくれる人が側にいることを、心底ありがたく思った。