色鉛筆
小さい頃、薬箱くらいの大きさの色鉛筆が入れがあって、それを使ってお絵描きするのが好きだった。
家の敷地内に父の事務所があったので、そこで不要になった裏紙を大量にもらってお絵描きをする。たまにお絵描きした紙をかばんのように成形して、両親にプレゼントしていた。
それがわたしにとって当たり前の日常だったんだけど、あれだけの色鉛筆がある家って、そうそうないのではないだろうか。
大学になって無印の36色の色鉛筆を買ったが、36色あっても小さい筒に収まっているから、うちにあった色鉛筆は100近かったんじゃないかと推察される。
それだけ、いろんな色に出会うことができたんだと思う。よく思い返せば、わたしは色に対してかなりこだわっていた。紫でも青が強い紫は嫌いで、赤紫が大好きなんだということを保育園の帰りの車のなかで母親に熱弁していた。
水は水色じゃないのに、なぜ水色は水色と呼ぶのか。わたしが今日保育園ではいったプールは水色じゃなかった。ホースから出てくる水もどちらかといえばネズミ色、銀色に近く見えるんだよなぁと、疑問に思っていた記憶もある(曇天だったのだろう、のちに青色はものに固有なものではなくて、現象として現れる色なのだと知った)。
父親は子育ては母親に一任という感じで、仕事から帰ってきていつもテレビばかり見ている人、という印象だったが
あれだけの色鉛筆をそろえてくれて、わたしがしつこく職場に裏紙をもらいに行っても嫌がらないでくれて、案外いいお父さんだったのかもしれない、と思った。
昨晩読んだ本
昨日は『六つの星星』を読んだ。
哲学や精神分析、生物学などの専門家6人と作家川上未映子の対談がまとめられた本。
この本の最初にまとめられている対談が、精神科医の斎藤環との対談なのだが。
彼は何かにつけ、川上未映子の少し病的な家庭環境を分析したがる。
家庭環境について聞き出し、頼んでもいない分析をはじめる。どんな会話も自分が専門とする精神分析の枠組みに回収していく。
それってとても失礼なことだと思うのだ。
斎藤環にとっては、川上未映子という個人との対話なんてどうでもいいように見える。
川上未映子のことを知りたいのではなく、川上未映子という事例を通して、自分が足場とする精神分析の有効性を確認したいだけなのだ。
この対談が一つ目の対談としてまとめられていたから、なんだかしょっぱなから、とってもしらけてしまった。
なんだけど、その次二つ目の対談相手は、生物学者の福岡伸一先生だった。
前に『生物と無生物のあいだ』を読んで、とても好きな先生だ。
この方との対談なら、今のイマイチな気分を和らげてくれるに違いない、という淡い期待を抱き、頁をめくる。
福岡先生との対談は、お互いが根本的な問いを共有していて、ゆるやかに会話が展開する感じがとても心地よかった。
「実在とは何か」という人類規模の、もっといえば宇宙規模の問いに対して、オカルト的な論理の飛躍に頼ることなく、ゆるやかにでも粘り強く向き合っている。
学問をする人間として、福岡先生のような人になりたい、と思った。
たまに憂鬱
人と深く知り合うことが苦手だ。
がっかりされたり、相手が思う自分像に束縛されることが嫌いだし、とても怖い。
父親がそういうふうに家族に期待する人で、期待を裏切られると手の出る人だったからか、わたしはそういう人の態度や自分が隠し持っている相手への期待に気づくと、怖気づく。
知り合って好感を持ち始めた段階、まだ深く相手の人生に入り込んでいない段階は、互いに気を使いあうから、傷つけたり傷つけられることも少ない。
それにこれから関係が深まっていくことへの期待感に満ちているから、多少の不満もスルーできる。相手の言葉をちゃんと聞き/読み取ろうとするから、ディスコミュニケーションも起こりづらい。
でも相手を深く知り合えば知り合うほど、相手が普段どういう振る舞いをする人なのかを知っているから、自分が思う相手像に反したことをされると腹立たしく思ったりする。相手のイメージが先行して、相手がそのとき発した言葉を歪めて受け取ることもある。
一緒に過ごす時間が増え、相手に対する知識が増えていく。どこに住んでいるのか、何が好きなのか、とかそういうことだけではなく、相手のパーソナリティについての知識が増えて行く。相手の言動が自分のなかにストックされていく。
そういうふうにして、どうやらこの人にはこういう傾向があるから、こういうことをされると嫌なんだなってことがわかっていく。こういう分析的思考は、相手への思いやりに働けばいいけど、あの人は性格的にこういう特性があって、だからこういう好ましくない振る舞いをする、というふうに相手を批判するための材料になることもある。
そういう思考は、なんというか、ゆきだるま式なのだ。相手がわたしにした純粋な事実がもとの丸だとすると、思考によって憎悪や悲しみや不甲斐なさが、ゆきだるまを転がすようにくっついていく。もとの丸にはなかった余計なものがいっぱいくっつく。
もとあった以上のネガティブを内包するようになる。
深く知り合えば知り合うほど、関係を保つのは難しい。
関係が深まることはありがたいことなのに、関係が深まるほど、ディスコミュニケーションが起きたときの悲しみは倍増する。
また1からスタートできる別のフィールドにうつりたくなる。
少し大人になったほしいコスメリスト
虹色に輝くセロファン、多色ラメ、
ガラス玉をカチ割ったようなきらきら
夏を前にわたしはそういうものに惹かれるようになっていて、化粧品なんかもそういった系統のものを集めていた。
しかし夏が訪れてリアルに感じたのは、わたしの夏はキラキラしていないということである。というかわたしは夏に限らず、キラキラしているタイプの人間ではない。
幼い頃から五月人形のような子だと言われてきた。
毛量が多いボブで眉毛も濃かったので、ビジュアル的にまさにそれだったし、精神面でもこども特有のキャピキャピしたところがなかった。
保育園のころ、こどもの日の企画として、みんなで一体のでかい鯉のぼりを持って園庭を歩くというのがあった。「鯉のぼりさんをお散歩させよう」そんな謳い文句だったと思う。わたしはみんなの輪に入れなかった。みんなが我先にと鯉のぼりを掴みに行くなか、押しのける積極性はなかったし、「いや、ただの鯉のぼりやん」という冷めた気持ちがあった。五月人形顔のくせにね。
中学生くらいになって、わたしはなぜこんなに冷めているのか、周りを客観的に観察してばかりでなぜ一緒になって騒げないのか、こんなんで残りの人生を楽しんで生きることはできるのかということを悩み始めたが、そのときこの保育園のときの体験を思い出し、「ああ、こんな昔から冷めていたのだな、こりゃ生まれ変わらないかぎり無理だわ」と悟ったのだった。
そういうわけで、わたしがキラキラしていないのは生来の特徴である。
わたしは稲を刈り切った田んぼに作られる藁塚に興奮したりするし、小野二郎の知恵ある生き方に感嘆するのだが、そんな人生のささやかな美しさを表現できるようになりたい。
少し飛躍があるようだが、そう思い至ったことによって、新たなほしいコスメリストが生まれた。わたしにとってメイクは価値観の表現でもあるようだ。
◎アリタウム / MONOEYES
アリタウムは韓国のプチプラコスメブランド。モノアイズがどうしてもモンキーズに見える。
M01オルス
バルス!みたいで面白い名前だが、どういう意味なんだろうか。
楽天ではEARTHと表記されているので、地球なのかな。オルス、なんかギリシア神話に出てくる神のような響き(ゼウスみたいな…)。
これはMACのソバに似た色として韓国で話題になったらしい。モノアイズのなかでも一番人気のカラー。
ずーっと前にソバがほしくて、でも高くて断念したのを思い出し、ジェネリック商品とされるこちらの検討を考えている。
ラメ入りだがさほど主張せず、全体的な印象としてはマット。赤みのないグレイッシュなブラウン、ミルクココアみたいな色。
M08クラシックシャドウ
こちらはよりグレーの強いブラウン。アイブロウとして使いたい。
眉はペンシルでわりとはっきり描くのも好きだけど、ファッションによっては自眉を生かしてふんわり仕上げたいときがあるので、そんなときに活躍しそう。
◎hince / トゥルーディメンショングロウチーク
hinceってご存知だろうか。
こちらも韓国コスメブランドだが、なんと2018年にはじまった生まれたてホヤホヤのブランドである。Qoo10を徘徊して初めて知ったブランド。生まれたてとは思えないほどブランド世界観が確立されてる。
韓国のメイクは、全顔のトーンが均一でリップの彩度が高くって、というふうになんだか抜け目ない印象なのだが、こちらのブランドは抜け感をテーマにしている印象。
少し日本のコスメブランドと感性が似ているな、と感じた。雑誌でいうと『CYAN』のような雰囲気。
ちなみに日本人の方がモデルをつとめているらしく、そんなところからも日本人にも親しみやすく、使いやすいブランドなのかなと想像している。
このチークがまさにわたしの求めていたヌラヌラ。もはやどの色とは言わない。全色ほしい。しいていうならmellowというカラーかなぁ。
救われない人
嫌なことされたらすぐ怒ればいいと思う。
同じ人間といえども個人で論理体系は微妙に違っているので、相手の知性に訴えかけても共感は得られない(ことのほうが多い)。それなら思いっきりブチ切れたっていいんじゃないか。嫌だと思う感情の存在は認識してもらえる。
なんであんな人を他の人は好いているの?私にはあんなことやこんなことをするのに…
ってめそめそしているけど、
あなたが嫌いなあの人がなぜ他の人には好かれているのか。
それは嫌なやつという属性がその人の全てではないからではないか。
というか、「嫌なんですけど」と言ってもなお嫌なことをやり続けてくるやつこそが「嫌なやつ」なのであって、文句の一つも言っていないくせに、負け犬の仮面を被って人のことを嫌なやつと流布する方が、よっぽど嫌なやつである。
嫌なことをされたときに腹をたてることができなかったから、その消化不良を、相手の全てを「嫌なやつ」と認定することによって治めようとしている。
その人は、あなたに嫌なことをしたその一瞬、たしかに嫌なやつだったのだ。
でも、そのとき腹の底から怒っていれば、「その一瞬において嫌なやつ」で済んだかもしれない。怒らなければ、その人は「永遠に嫌なやつ」になってしまう。
それを繰り返せば、敵だらけの人生を送ることになる。
二郎
最近かくかくしかじかで、スマホを使えていない。
わたしがスマホを使えなくなってそろそろ3日目。
夜風にあたりながら、そわんわん(20代前半、自称微容系YouTuber、元気が出る)の動画をみるのが日課だったのに…
わたしは極度の寂しがりやで、人の声がないと不安になる。
だから勉強をするにも、人が3人以上いる場所じゃないとできないし(2人だとおしゃべり欲がまさって勉強できなくなる)
家で一人でいるときは動画を視聴するのが常である。
わたしの生活にこれほどまで音がないのは、はじめてのことかもしれない。
今聞こえる音といえば、夜になって慎ましやかに鳴くセミと鈴虫の声くらいである。
昨晩はそんな虫たちの声をバックに、手持ち無沙汰だったので本を読んだ。活字嫌いのわたしにしては珍しく、長編小説をひとつ読み終えた。
今は『小野二郎セレクション』を読んでいるところである。
小野二郎はウィリアム・モリスの研究で著名で、モリスを出発点にイギリス文化に精通していたようだ。本著は彼が経験したイギリスについて資料を織り交ぜながら語られている。
この資料と経験の織り交ぜ方が絶妙で、知性と感性のバランスが優れた人だったのだろうな、と思わされる。
THE学問といった内容ではないし軽い文体だが、読み応えがある。とてもいい本に出会った。
2年前くらいに購入してなぜかずっと読む気になれず、昨日ようやく読み始めたのだが、このタイミングというのも運命だ。
数日前のわたしは動画漬けで視覚が満たされまくっていたので、小野氏の語るイギリスの風景になびかなかったんじゃないかと思う。
「ああそうかい。でもわたしは本から遠い世界を想起するより、動画見て手短に満足するわ」って。
孤独で静かな今だからこそ、楽しんで読めてる。
感覚が研ぎ澄まされている、という感覚があって、それは土鍋で米を炊くときも感じた。
わたしは普段土鍋で米を炊いているのだが。10分中火、10分弱火、火を止めその後20分むらす。たまに水が多いときもあり、弱火〜火を止めるタイミングは時間よりも音で決まる。半端な炊き具合だとグツグツという音がする。パチパチという乾いた音がなれば、それが火をとめる合図。
今日はその音が、やけに鮮明に聞こえたような気がした。
カルスタの本を読むと、影響を受けてちょっとかっこつけた感じの内容を書いてしまうのが恥ずかしいわ。