たまに憂鬱

 

人と深く知り合うことが苦手だ。

がっかりされたり、相手が思う自分像に束縛されることが嫌いだし、とても怖い。

父親がそういうふうに家族に期待する人で、期待を裏切られると手の出る人だったからか、わたしはそういう人の態度や自分が隠し持っている相手への期待に気づくと、怖気づく。

 

知り合って好感を持ち始めた段階、まだ深く相手の人生に入り込んでいない段階は、互いに気を使いあうから、傷つけたり傷つけられることも少ない。

それにこれから関係が深まっていくことへの期待感に満ちているから、多少の不満もスルーできる。相手の言葉をちゃんと聞き/読み取ろうとするから、ディスコミュニケーションも起こりづらい。

 

でも相手を深く知り合えば知り合うほど、相手が普段どういう振る舞いをする人なのかを知っているから、自分が思う相手像に反したことをされると腹立たしく思ったりする。相手のイメージが先行して、相手がそのとき発した言葉を歪めて受け取ることもある。

 

一緒に過ごす時間が増え、相手に対する知識が増えていく。どこに住んでいるのか、何が好きなのか、とかそういうことだけではなく、相手のパーソナリティについての知識が増えて行く。相手の言動が自分のなかにストックされていく。

 

そういうふうにして、どうやらこの人にはこういう傾向があるから、こういうことをされると嫌なんだなってことがわかっていく。こういう分析的思考は、相手への思いやりに働けばいいけど、あの人は性格的にこういう特性があって、だからこういう好ましくない振る舞いをする、というふうに相手を批判するための材料になることもある。

そういう思考は、なんというか、ゆきだるま式なのだ。相手がわたしにした純粋な事実がもとの丸だとすると、思考によって憎悪や悲しみや不甲斐なさが、ゆきだるまを転がすようにくっついていく。もとの丸にはなかった余計なものがいっぱいくっつく。

もとあった以上のネガティブを内包するようになる。

 

深く知り合えば知り合うほど、関係を保つのは難しい。

関係が深まることはありがたいことなのに、関係が深まるほど、ディスコミュニケーションが起きたときの悲しみは倍増する。

また1からスタートできる別のフィールドにうつりたくなる。