手放さない

 

今日は図書館で福岡伸一の『わたしの好きなもの』という本を読んだ。

 

先生の「好きなもの」には、子供のころの原体験がある。

単純に今はまっているもの、とかではない。

子供のときに心に感じた小さなときめきをずっと手放さず、大事に育ててきた人なんだと思う。

 

そういうふうに、時間を編むようにして生きることのできる人ってどれだけいるだろう。

 

 

色鉛筆

 

小さい頃、薬箱くらいの大きさの色鉛筆が入れがあって、それを使ってお絵描きするのが好きだった。

家の敷地内に父の事務所があったので、そこで不要になった裏紙を大量にもらってお絵描きをする。たまにお絵描きした紙をかばんのように成形して、両親にプレゼントしていた。

 

それがわたしにとって当たり前の日常だったんだけど、あれだけの色鉛筆がある家って、そうそうないのではないだろうか。

大学になって無印の36色の色鉛筆を買ったが、36色あっても小さい筒に収まっているから、うちにあった色鉛筆は100近かったんじゃないかと推察される。

 

それだけ、いろんな色に出会うことができたんだと思う。よく思い返せば、わたしは色に対してかなりこだわっていた。紫でも青が強い紫は嫌いで、赤紫が大好きなんだということを保育園の帰りの車のなかで母親に熱弁していた。

水は水色じゃないのに、なぜ水色は水色と呼ぶのか。わたしが今日保育園ではいったプールは水色じゃなかった。ホースから出てくる水もどちらかといえばネズミ色、銀色に近く見えるんだよなぁと、疑問に思っていた記憶もある(曇天だったのだろう、のちに青色はものに固有なものではなくて、現象として現れる色なのだと知った)。

 

父親は子育ては母親に一任という感じで、仕事から帰ってきていつもテレビばかり見ている人、という印象だったが

あれだけの色鉛筆をそろえてくれて、わたしがしつこく職場に裏紙をもらいに行っても嫌がらないでくれて、案外いいお父さんだったのかもしれない、と思った。

 

 

 

食事でたとえる人

 

これまであまり自分の肌質について考えたことがなかったのだが、

最近スキンケアに興味を持ち始めて、美白!毛穴ゼロ!生まれたてのお肌に!みたいな、攻めの謳い文句の商品を購入するようになった。

これまでは、ハトムギ化粧水にそのときの気分で適当に買った乳液を重ねるという工程で、化粧品が自分の肌に合う/合わないということを考えたこともなかった。

 

わたしはとっても極端な人間なので、スキンケアに対して無関心だったのが一転、シーラボのVC100ゲルとか、グーダルのビタCインテンスクリームとか、まあいろんなものを一気に買い揃えた。

 

でも、こうした生まれたての白肌に回帰!毛穴一掃!みたいな圧倒的な目的がある商品、何かしらに特化した商品って、効果がある分、肌への負担が大きい(場合が多い)と感じる。

食事ってエネルギーチャージである一方、消化するために体力が消耗されるわけだけど、そんな感じなんだよな。霜降りの牛肉とか食べると逆に体が疲れちゃう、みたいな。

肌も過剰な成分、よすぎる成分に疲れるんだなということを知った。

 

そういう学びがあったからか、あらためてヴェレダカレンデュラクリームはわたしの肌にちょうどいい、標準的な状態に戻してくれるアイテムだと実感した。

 

正式名称は「カレンドラ ベビーミルクローション」っていう。

ボディーミルクとしてだけじゃなく、顔用の乳液としても使えるのがよいところ。なんならわたしはこれを髪にも使っている。

 

コスメキッチンに行ったとき、赤ちゃんとママ(これがパパでも構わないのだが)が一緒に使えるというポップに惹かれ、購入を決意した。赤ちゃんにも使えるってことは、人間にとって必要最低限の、根本的な成分が入ってるってことなんじゃないかと思ったのだ。

 

使用感としては、最初は肌になじみづらいんだけど、いろんな向きから肌に優しく塗り込んであげるとなじむ。こっくりしたクリームで結構オイリーな印象なのに、しばらくすると肌に吸収されていくのか、肌の上にクリームが残ることもない。

 

〇〇特化型の商品じゃないから抜群の効果はないんだけど、お風呂上がりにこれをつけて寝ると、なんか肌が元気になる。エネルギー爆発というより、すごく健やかな状態になる。味噌汁飲んでしみる、みたいなそんな感じ。

 

 

 

 

 

昨晩読んだ本

 

昨日は『六つの星星』を読んだ。

哲学や精神分析、生物学などの専門家6人と作家川上未映子の対談がまとめられた本。

 

この本の最初にまとめられている対談が、精神科医斎藤環との対談なのだが。

彼は何かにつけ、川上未映子の少し病的な家庭環境を分析したがる。

家庭環境について聞き出し、頼んでもいない分析をはじめる。どんな会話も自分が専門とする精神分析の枠組みに回収していく。

 

それってとても失礼なことだと思うのだ。

斎藤環にとっては、川上未映子という個人との対話なんてどうでもいいように見える。

川上未映子のことを知りたいのではなく、川上未映子という事例を通して、自分が足場とする精神分析の有効性を確認したいだけなのだ。

 

この対談が一つ目の対談としてまとめられていたから、なんだかしょっぱなから、とってもしらけてしまった。

 

なんだけど、その次二つ目の対談相手は、生物学者福岡伸一先生だった。

前に『生物と無生物のあいだ』を読んで、とても好きな先生だ。

この方との対談なら、今のイマイチな気分を和らげてくれるに違いない、という淡い期待を抱き、頁をめくる。

 

福岡先生との対談は、お互いが根本的な問いを共有していて、ゆるやかに会話が展開する感じがとても心地よかった。

「実在とは何か」という人類規模の、もっといえば宇宙規模の問いに対して、オカルト的な論理の飛躍に頼ることなく、ゆるやかにでも粘り強く向き合っている。

学問をする人間として、福岡先生のような人になりたい、と思った。

 

 

純粋経験

 

後輩に恋愛相談された。

そのときうまく答えられなかったのだが、その後自分のなかでぐるぐると考えて。

わたしの答えはこれだな、というのが見つかった。

 

その後輩の悩みというのは、

最近付き合い始めた彼氏の元カノがかわいい、性格もいい、なぜ自分を彼女にしてくれたのかわからず不安だ、というものだった。

おそらく、元カノとよりを戻すかもしれないことへの不安というよりも、とにかく自分に自信がない様子だった。

 

付き合い始めに陥りがちな感情だと思う。相手が愛情表現を大げさにするタイプならいいが、そうでなければ相手なりの愛情表現の仕方を理解し気づけるようになる必要がある。そのためには時間がたっぷり必要だ。

 

なんならわたしは今でも相手の気持ちに対して疑心暗鬼になり、どこが好きなのか言語化してほしいと彼氏にねだっている。

しかしわたしの彼氏は、そういうことに対する意志があまりない人で、わたしのモヤモヤモードが終わるのを静かに見守っている。それでわたはますます不安になる。

 

わたしは後輩の気持ちがよくわかる。だからこの悩みについて考えることは、わたし自身を癒すことになる。そう思って考えてみることにしたのだ。

 

恋愛において、感情を伝える明確な言動がどれほど重要か。

相手への配慮として、感情を伝えることは大事だろうし、してもらえたら素敵だと思う。

だけど、彼氏/彼女の好きなところ10選を言えたところで、愛情が豊かであるという根拠にはならないし、より豊かになることもない。

 

西田幾多郎は、思惟されたものは所詮派生物だと言った。

相手と交わる(エロい意味ではない)純粋経験というのがあって、その経験をもとにわれわれは種々の感情を言語化する。でもその言語化された感情は、現在を表現していない。過去の想起であって、今の感情ではない。〇〇なところが好きというとき、その〇〇は現在の相手を表現してはいない。

わたしの現在の感情、現在の意識はどこにあるのか?それは純粋経験のなかにある。

本当の相手への愛情は言語化できない、純粋経験のなかにあるのだ。

 

だから、言葉に振り回されなくてもいいのではないだろうか。

相手と一緒にいるとき感じられる、なんだか心地よいこの感じが愛なのだ。

 

まあでも、これは相手と理解し合えない現実をのりこえるために、意識の焦点をずらすという一種の手段なのだ。

実際のところ、相手にうまい言葉をかけてなだめることのできない人は恋愛には不向きだと思う。だって、純粋経験のうちに愛があるというのならば、お互いに漠然とした好意を持っているだけでよかったからだ。

 

彼氏ー彼女(これだけに限らないかもしれないが。彼女ー彼女もありうるわけで。)という関係を築くということは、相手を特別な何者かとして、その他大勢から線引きすることだ。であるならば、やはり線引きされる理由を求めるのが人間の性ってものだ。

 

 ついでにこの前発見した鬼かわなリップの組み合わせについても書いておこう。

メイベリンのカラーセンセーショナルB05とネイチャーリパブリックのリアルマットリップスティック07。

クリーミーなブリックレッドになってとてもよい。

 

 

 

世田谷郵便局スマホ事件

光の速さで気持ちを切り替えることのできるわたしは、さっきの記事の陰鬱な気分もどこへやら、今は少しだけるんるんである。

 

というのも自分史上最高にかわいいリップの重ね技を見つけてしまったからなのだ。

ここにスマホがあったのなら、ぜひともスウォッチして写真をとって載せたかった。

しかし、今スマホがない。そういえば、スマホがなくなっている経緯をブログに書いていなかった。

最強にかわいいリップメイクについてメモする前に、世田谷郵便局スマホ事件について語ることにしよう。

 

つい最近わたしはスマホをなくした。

その日の足取りはこうだ。その日は研究室の先輩後輩と一緒に持ち込みできる店で飲み会をする予定だったから、近所のヤマヤで酒を買い漁った。その後郵便局に行ってメルカリの取引先宛に荷物を発送。すぐ近くにある西友に飲み会用の肉を買いに行った。

 

砂肝の前でしばしなやむ。「下処理をしなければいけないが、それをクリアすればいい酒のつまみになりそうだ。どうやって下処理をするのか、スマホで調べてみよう…」

ところがスマホがない。このときようやくスマホがないことに気がついた。

 

「そもそも家から持ち出さなかったのか。ヤマヤでどの酒を買うか悩んだときか。それとも…」

とりあえず自宅に帰って探すもなかったので、その日行ったところ一軒ずつ回ることにした。しかし見つからない。

 

「今日のわたしにとって一番大切なことは何か?スマホではない、飲み会だ!」という結論にいたり、飲み会前の集合場所として設定されていた学校へ向う。学校のパソコンで「iPhoneを探す」(スマホ追跡機能)を使えばいいやという楽観もあったのだ。

 

しばらくして学校に到着。iPhoneを探すを起動させると、自宅近くの郵便局にあるようだ。「なんだ、今日行った郵便局で落としたのか、じゃあ明日にでも取りに行けばいいや」そんなことを思い、砂肝の下処理の仕方もきっちり調べ、わたしは宴の席に興じたのであった。

 

しかし翌日再び「iPhoneを探す」を使ってみると、なんと世田谷郵便局に●がついているではないか(わたしの住まいは東北である)。

郵便局ちがいではないか。ついにiCloudはバカになってしまったのか。それともわたしの目がイカれてしまったのか。脳みそが怒涛の勢いで回転したすえ至った推論(ほぼ結論)がこれであった。

「メルカリの荷物とともに、近所の某郵便局から、世田谷まで運ばれた」

 

すぐさまメルカリの取引相手の住所を確認する。

東京都世田谷区〇〇…

「おお、完全に運ばれているやんけ。たしかに薄っぺらい新書一冊で送料300円て高いと思ったよ。スマホが同梱されていたから重量アップしてたのかよ…いろんな謎が解決したわ」というアハ体験とともに、焦りも到来した。

 

取引相手が変なやつだったらどうしよう。

いや、ミスって荷物にスマホ同梱しちゃう人間の方がよっぽど変だよ!と突っ込みたくなるが、疑心暗鬼星人なわたしは、とにかく郵便局で荷物を食い止めなくてはと思った。

 

スマホがないから、小学校以来に公衆電話を利用したのだが、郵便局のコールセンターにかけるのも一苦労だった。

最初に電話した人から「ゆうメールの追跡番号を教えていただかないと」といわれるも、もらったレシートにはそんな番号のっていない。

「見つけ次第電話を掛け直します」と言ったら、「次の電話で別のオペレーターがとってもわたしに引き継ぐようにしてください」と言われた。

しかし次電話してみると、「今〇〇は対応中ですので、またお掛け直しください」と通話開始3秒で言われ、公衆電話に投函した100円玉を無駄にした(公衆電話は100円玉は返さない残酷なシステムを採用している)。

ようやくはじめのオペレーターさんに電話がつながるも、発送した郵便局から荷物差し止めるための申請書を発行しなければならず、手続きに相当な時間がかかるとのこと。

「こんな一大事にマニュアル対応しやがって!この変人!」と叫びたかったが、荷物にスマホを同梱する変人にそんなことを言う資格はない。

 

腹をくくって取引相手に直接送りかえしてもらえないか、交渉することにした。

その人の第一声はこうだった(本当は声ではない、メルカリのメッセージ欄だったから)。

 

「あら、大変!」

 

ここで確定した。ああ、わたしの取引相手はあの「世田谷マダム」だと。

メルカリでは取引相手の年齢はわからないし、当然相手の年収やらといったもろもろのスペックもわからない。しかし確信したのである、世田谷マダムだと。

こんな前代未聞なミスに、文面でこの余裕の対応。只者ではない。

 

しかもわたしが発送した商品、つまりマダムの購入品ということになるが、それはウィリアム・モリスについての本である。ご存知だろうか、ウィリアム・モリス

イギリスを代表する工芸デザイナーで、アフタヌーンティーセットが飲み食いできるような店の壁紙なんかはだいたいモリスのデザインだ(雑)。

もう、そんなこんなで、ますますマダム確定である。

 

取引相手がマダムだとわかり(推測の域を出ない)、スマホを取り戻さなくてはという焦りが一気に引いた。それで最近、優雅な無音生活を送れていたわけである。

 

話の落とし所が見つからず

長々と書いてしまったが、わたしがスマホをなくした経緯はこんなであった。

そしてさきほどようやく、マダムのもとにスマホ入りのゆうメールが届いたらしい。

届いてすぐ、スマホ厳重に梱包しポストに投函してくれたというから、そうした思いやりがきらめき輝いているところも、やはりマダムの気品が感じられる。

 

なんだかリップの紹介はまた後日、って気分になってしまったので、今回はこのへんで。

 

 

 

たまに憂鬱

 

人と深く知り合うことが苦手だ。

がっかりされたり、相手が思う自分像に束縛されることが嫌いだし、とても怖い。

父親がそういうふうに家族に期待する人で、期待を裏切られると手の出る人だったからか、わたしはそういう人の態度や自分が隠し持っている相手への期待に気づくと、怖気づく。

 

知り合って好感を持ち始めた段階、まだ深く相手の人生に入り込んでいない段階は、互いに気を使いあうから、傷つけたり傷つけられることも少ない。

それにこれから関係が深まっていくことへの期待感に満ちているから、多少の不満もスルーできる。相手の言葉をちゃんと聞き/読み取ろうとするから、ディスコミュニケーションも起こりづらい。

 

でも相手を深く知り合えば知り合うほど、相手が普段どういう振る舞いをする人なのかを知っているから、自分が思う相手像に反したことをされると腹立たしく思ったりする。相手のイメージが先行して、相手がそのとき発した言葉を歪めて受け取ることもある。

 

一緒に過ごす時間が増え、相手に対する知識が増えていく。どこに住んでいるのか、何が好きなのか、とかそういうことだけではなく、相手のパーソナリティについての知識が増えて行く。相手の言動が自分のなかにストックされていく。

 

そういうふうにして、どうやらこの人にはこういう傾向があるから、こういうことをされると嫌なんだなってことがわかっていく。こういう分析的思考は、相手への思いやりに働けばいいけど、あの人は性格的にこういう特性があって、だからこういう好ましくない振る舞いをする、というふうに相手を批判するための材料になることもある。

そういう思考は、なんというか、ゆきだるま式なのだ。相手がわたしにした純粋な事実がもとの丸だとすると、思考によって憎悪や悲しみや不甲斐なさが、ゆきだるまを転がすようにくっついていく。もとの丸にはなかった余計なものがいっぱいくっつく。

もとあった以上のネガティブを内包するようになる。

 

深く知り合えば知り合うほど、関係を保つのは難しい。

関係が深まることはありがたいことなのに、関係が深まるほど、ディスコミュニケーションが起きたときの悲しみは倍増する。

また1からスタートできる別のフィールドにうつりたくなる。